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日蓮正宗と日蓮宗(身延)とは何が違うでしょうか?

私たちは「日蓮宗」ではなく「日蓮正宗(しょうしゅう)」です!

なぜ「身延山」ではく、「富士大石寺」を総本山とするのか

 日蓮大聖人はご入滅に先立ち、六人の高弟を選定し、滅後の教団維持と広布進展を託されました。なかでも白蓮阿闍梨日興上人をご自身唯一の後継者と定め、身延山久遠寺の第二代別当(住職)としての確固たる地位と、本門戒壇の大御本尊を根源とする大聖人の仏法の一切を授けられたのです。ここに、日興上人を中心に、五老僧たちが協力して、弟子や信徒を育成したり、全国の折伏を推進していく大きな体制が整えられたことになります。

 ところが日蓮大聖人が入滅されると、他の5人の高弟は、いとも簡単に日蓮大聖人の遺言を破り、日興上人に背くようになりました。それは、日蓮大聖人第1周忌法要には、五人の高弟すべてが、日蓮大聖人の御墓に参詣していない事実からもよくわかります。
 さらに一年後、大聖人の3回忌が済んだころ、ひょっこりと身延の日興上人の元に登山してきた五老僧のひとり・民部日向は、そのまま身延に住み着いて、あろうことか地頭・波木井実長をそそのかし、日興上人に反逆させ、自身が久遠寺別当の地位に登る画策を謀るに至ったのです。

 「このままでは、日蓮大聖人の正義が乱されてしまう…」。日興上人は大変な危機を感ぜられました。そこで日蓮大聖人の「地頭不法ならんときは、我も住むまじ」「富士山に本門寺の戒壇を建立すべき」との御遺言もあり、日興上人は、日蓮大聖人の仏法が日向や波木井に汚染される前に、富士・上野の地頭であった南条時光を頼り、身延山から富士の地へと移動されたのです。その際日興上人は、末法万年の衆生救済の根源の御本尊として日蓮大聖人より託された本門戒壇の大御本尊や、日蓮大聖人の御墓から御遺骨までも取り出して、日蓮大聖人有縁のすべての宝物を富士の地へと移されたのです。一年の月日を経て、翌年10月、大石寺を開創されました。

 以後700年以上にわたり、大石寺には、日興上人が日蓮大聖人より授けられた末法唯一の大正法が、代々の歴代上人の深い信心を基とした「血脈相承」により、正しく受け継がれています。
 全世界の日蓮正宗僧俗は、大石寺に正しく伝持される日蓮大聖人の正法のもと、一致して広宣流布を推進し、世界平和・仏国土建設のため、日々折伏と育成に邁進しています。

「日蓮宗身延派」の教義・信仰に、大いに疑問を抱く理由

▼本門と迹門の一致を説いています
 日蓮宗では、法華経の本門と迹門との一致を立てています。この説は天台大師が法華玄義に説いた「本迹異なりと雖も不思議一なり」との解釈によるものですが、これは天台の教えであり、日蓮大聖人の仏法に当てはまるものではありません。
 日蓮大聖人は、法華経の本門と迹門は、久遠実成の本仏と、始成正覚の迹仏という仏の身においても、また説かれる法の実体においても、勝劣があると示されています。その相違はまさに水火・天地と言えるのです。日蓮大聖人の教えを否定し、像法時代の聖者である天台大師の説を採るなどということは、日蓮大聖人への反逆以外の何者でもありません。

▼身延派では、寺ごとに本尊がバラバラ。思いつきの宗教と批判されています。
 日蓮宗では、信仰の根幹である本尊について、いまだに日蓮大聖人のご聖意が何であるか理解できず、本尊に関する御書を集めて、本尊の候補を選び、その中から多数決や学説などによって相談して決める、などというきわめて杜撰な見解を発表しているのが現実です。

 たとえば、本尊候補として、①首題本尊 ②釈迦一体仏 ③大曼荼羅 ④一尊四士 ⑤二尊四士 など複数のものが挙げられています。現在では、これらの中でも、一尊四士を日蓮宗の本尊と定めるのが適当であると結論づけているようです。
 日蓮宗身延派では、こうした本尊を制定する理由として、日蓮大聖人の御書『観心本尊抄』の「仏像出現」という語句を挙げています。しかしこの御書に出てくる「仏像出現」とは「釈尊の仏像を造る」との意味ではなく、久遠元初という本源の仏法を顕わされる本仏が出現することを、日蓮大聖人が示されている語句であると拝するのが正しい読み方なのです。つまり「本門の教主釈尊を脇士とする本仏(日蓮大聖人)が出現して建立する未曾有の大曼荼羅御本尊」を意味しているのです。
 こうした深い意味が解らず、ただ「仏像」「教主釈尊」という言葉だけを見て、
 「ああ、お釈迦様の像を安置せよと、日蓮大聖人は示されたのだな」
と曲解するのが、日蓮宗の人々の大いなる過ちと言えましょう。

▼身延には、日蓮大聖人の正しい仏法が伝わっていません。
 日蓮宗では、大曼荼羅御本尊を書写する場合、日蓮大聖人のことを「日蓮大菩薩」と書いたり、首題の南無妙法蓮華経の直下にある「日蓮」という御名を削除して、その代わりに自分の名前を書き上げる、といったのように、数々のまちがいを犯しています。このことからも、六老僧のなかでも日興上人だけが唯一正統な大聖人の後継者であり、それ以外の門下には、日蓮大聖人の正義が伝わっていない証といえます。
 日蓮宗には、日蓮大聖人よりの正しい相伝がないので、日蓮大聖人の御書の断片をみるなどして、勝手な教義をつくっているのです。

▼日蓮宗の寺には、正しい本尊がありません。
 日蓮宗の寺には、現在も鬼子母神や稲荷、七面大明神、清正公など、三十番神をはじめ雑多なものを信仰の対象として祀られています。しかし、これらの勧請は、すべて、日蓮大聖人滅後に、日蓮大聖人の仏法の意味が解らない弟子たちが勝手に作り上げたニセモノの本尊です。

 日蓮大聖人は御書に
 「此等の仏・菩薩・大聖等、総じて序品列座の二界・八番の雑衆等、一人ももれず此の御本尊の中に住し給ひ、妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる。是を本尊とは申すなり」 (新編御書1387ページ)
と示されています。
 これは諸天善神は日蓮大聖人の当体である大曼荼羅御本尊に内在し、その諸天善神は妙法の功徳によって法華守護の任を果たすということです。したがって、諸天善神とは、あくまでも御本尊に具わる法華経の行者を守護する用きであり、諸天善神そのものを祀って信仰の対象とすることは間違いです。

 このように日蓮大聖人が顕わされた大曼荼羅御本尊と諸天善神との関係を曲解し、日蓮大聖人のお心に迷った結果、身延をはじめ日蓮宗の各本山や末寺は、仏像や番神の絵像、木像を、寺々で思い思いに祀り、「厄払い」「商売繁盛」などといった宣伝文句を活用して、商売道具としているのが現実の姿です。
 身延山久遠寺の門前では、日蓮大聖人の大曼荼羅御本尊のコピーが“みやげ物”として参拝客に販売されています。こうした実態こそ日蓮大聖人が
 「諸宗は本尊にまどえり」 (新編御書554ページ)
と指弾された邪宗謗法の姿そのものなのです。謗法を強く戒められ、謗法不信の者にはけっして本尊を授与されなかった日蓮大聖人の教えに真っ向から背く宗団こそ、現今の日蓮宗身延派と言えましょう。
 まさに
 「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(新編御書92ページ)
であり、日蓮正宗以外、日蓮大聖人の正義を正しく伝える宗団はあり得ないのです。

生命とは何でしょうか?

宇宙と生命の実相にせまる
 生命とは何か、これは古今の哲学者、科学者が様々な研究の立場より、解明に努力しつつある大問題であり、しかもその本源的真相は依然として未解決の領域にある。
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病気の原因はどこにあるのでしょうか?

日蓮大聖人の教えによる克服方法
日蓮大聖人御書
 「病の起こる因縁を明かすに六有り。一には四大順ならざる故に病む。二には飲食節せざる故に病む、三には座禅調はざる故に病む、四に鬼便りを得る、五には魔の所為、六には業の起こるが故に病む」(御書911)
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厄年は、どうしたら良いのでしょうか?

 「厄年(やくどし)」の「厄」という字は、もともと「木の節目」のことで、木に節があると製材や木工作業に困るところから転じて、災(わざわ)いや苦しみといった意味に用いられるようになったといわれています。
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「南無妙法蓮華経」と唱える宗教は、どれも同じでしょうか?

◆はじめに
 世間には「南無妙法蓮華経」との題目を唱える宗教はたくさんあります。人々が思い思いにお題目を唱えるのは、自分や家族が幸せになるため、あるいは先祖供養のためなどさまざまでしょう。
 しかし、南無妙法蓮華経とさえ唱えれば、どの宗教でも同じ利益・功徳があるのでしょうか。
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信じるものが変わると 価値観が変わります

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